真面目な話やめろ。今こそゆるふわに生きようぜ

真面目な話やめろや

 みんなクソ真面目すぎないか?

 友人に会えば金とキャリアの話をする。元恋人にあってさえもそうだ。仕事の話と金の話。大人ってそんなもんだという人もいるのだろうけど、本当にそうか?50代以上くらいだとそんなこともないだろうに。すげー気楽な話するよね。それは金があるからだって?うーん。本当にそうなのかしら。少なくともメタル・バーに来てジューダス・プリーストのコピーをやっているおじさんたちはそんなに金持ってるようには見えないんだけど。でもあの人たちが金の話してるの見たことないし、すげー楽しそうだ。多分あのギターとか高校生くらいのときから使ってんじゃねーの?

せめて話だけでもゆるふわにしてください

 そんでもってあれよ。いわゆる最近の若者的空間って、ガチクズ的雰囲気かクソ真面目的雰囲気しかないんじゃねーのって気がする。いや、それはあれか。俺が勝手にフィルタリングかけてるだけか。いるところにはちゃんといるんでしょうね。

 うーん。でもインターネットにはとりわけ真面目な話というか、金とか仕事の話ばっかり溢れてきたなーと思うんですよ。やれ高収入だの、やれアフィリエイトだのっていう。

 証拠はあるのかって?あるんだよこれが。

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Googleトレンド"年収"の推移

 いや、金のこと気にしすぎやろまじで。

 いやまじでねー。すげー居心地悪いと思うぜ、それ。  

村上春樹の心理分析法が最高すぎる

村上春樹川上未映子の対談集「みみずくはたそがれに飛び立つ」を読みました。

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

そのなかに「村上春樹が小説を書く際によくイメージすること」として紹介されていた、人間の心を一軒の家として表現したモデルが大変面白かったです。

最近の心理学では生物学的・脳科学的な分析もけっこう行うようでしたが、一昔前の心理学では学者個人の洞察に基づいたモデルを使用することが多かったようです。村上さんの精神のモデルはそれに近いかもしれません。

地下2階で起こっていること

村上春樹の語る、人の心としての家はこんな感じである。 f:id:kojimajikox:20190311072137j:plain 2階:趣味の物品や本などが置かれる個人的な場所   1階:家族や友人などと共有して使われる場所。楽しくて社交的で、共通の言語で喋っている。

地下1階:近代自我が巣を張っている場所。いわゆる社会的劣等感とか太宰的なドロドロしたものはこの辺にあるということ。貧困環境的な私小説とかで扱われやすい。これより下の階にとらわれると想像力を著しく奪われそうですね...

地下2階:さらに奥深くには、社会が成立する以前から引き継がれる人間の無意識がうごめいているとのこと。それこそ縄文時代以前の人類にも通ずるような無意識。

 いやほんとね、なるほどな〜大した人なんやなあ〜と思いました。

 心理分析の手法もさることながら、僕が本当にすごいなあと思ったのは村上さんが「あえて地下一階部分は素通りする」というスタイルを自作品で一貫して貫いているという点でした。そこにあるのはおそらく明治以降の私小説に代表されるような、やれ女だ、金だ、貧乏だ、酒だ、殺人だ、自殺だといったドロドロ・クヨクヨさが渦巻いているのだと思いますが、その部分を村上さんは「目を瞑ってスッと通り過ぎる」とのこと。その理由は”他の人がすでにやり尽くしているから”とのこと。こーゆーところがかっこいいですよね。勘が鋭いというか、マーケットの視点がすでに備わっているんですね。今になって思えばその通りですが、当時は”人間が描けていない”というようなバッシングを受けたこともあるようです。”文学はこういうもの”というステレオタイプがある程度成熟している中でのあの文体。なかなか真似できるものではないと思います。すげー。

引きこもりに悩んでいる人・家族とどうしても癒着してしまう人は村上龍の”最後の家族”を読んだらいい

村上龍の”最後の家族”

 どうしても家族や親の内面化された価値観から逃れられない、ベタベタした人間関係を築いてしまう。そんなひとにぜひ読んでいただきたいのが村上龍の”最後の家族”です。

 

最後の家族 (幻冬舎文庫)

最後の家族 (幻冬舎文庫)

 まあ、あらすじなんかはAmazonで読んでいただくとして、この小説の面白いところは”家族との絆が一時的に薄れることによって、それぞれが個人として自立し始める”というところにあります。よくありがちは”家族のおかげで困難を乗り越えられた!やっぱり家族は大切!”みたいな構成になっていませんし、ありきたりに泣かせてきたりもしません。登場人物それぞれが状況をある程度客観的に分析し、自分にとっての最適解はなんなのかを模索していく。あくまで”個人としての実現”に目を向けた作品になっています。

この作品があまり売れていないということは

 この作品はもっと評価されて、というか、社会的に需要があってもいいのではないかと思います。日本社会特有のベタベタした人間関係から逃れるために必要なメンタリティ、それを獲得するに至る行動が、一例とはいえ実に具体的に描かれているからです。家族という”社会の最小単位”をモチーフにしているのもいいですね。しかし現状こういった、”あるコミュニティから離れて個人が自立する”というテーマの小説はあまりみかけない、まあ少なくとも主流ではないような気がします。ということはつまり”自立に至る物語”には依然として需要があまりないということなのでしょうか?あるいは僕がそういった類の小説にたまたまあまり巡り合っていないということなのでしょうか?

   

勉強を辞めるために大学に行く人

そういうひと、いるよね

 世の中には実に様々な人がいますね。小さな頃から虫が好きで成長につれてその情熱が増しそのまま昆虫学者になる人がいて、ちょっとお値段の張るマンションに住みながらも夫の暴力に怯える女性がいて、暴力とドラッグ蔓延るスラム街に生まれながらも世界的ラッパーになる人がいて、大学生時代に出会った恋人とそのまま卒業後に結婚するカップルがいて、大学在学中に起業し人々の人生観を根底から覆すきっかけとなるデバイスを発明する人がいて、メンバーが連れ込んだ女は必ず他のメンバーにも一度味わせるという掟の中で生きるバンドマンがいて、自らの神への忠誠を示すため爆弾を体に巻きつけて死ぬ人間がいて、恋人とのセックスをインターネットに投稿し収入を得る人がいて、大丸百貨店の受付で働く人がいて、旅行に来た日本人相手の詐欺で生計を立てる日本人がいて、そして、勉強をやめるという目的のために難関大学を受験しそのまま合格してしまいその後とても困る人がいる。

 本当にいろんなことをするんです、人類って。

 今回はそんな愉快な人類総勢約70億人の中から選んだ任意の一人−つまり私のことですが−をサンプルとして抽出し、”勉強をやめるという目的のために難関大学を受験しそのまま合格してしまいその後とても困る人”の実情に迫って見たいと思います。レディゴー。

大学生は勉強しなくていいんじゃないの?

 高校時代、大学生という生き物は勉強をしないものだと信じていました。別に誰かにそう言われたわけではありません。大学生をモデルにした漫画やドラマから勝手に想像してたのかもしれませんし、周りにちらちらいる大学生をみて”こいつらとても勉強してるようには見えねえな”と思ったのかもしれません。もちろん”レポート”なるものの存在などは知っていましたが、そんなもんどうせ提出日に適当な文章書けばいいんだろうくらいにかんがえていました。(”単位”なるものの存在は知りませんでしたが...)

 いずれにしても高校生の頃の僕の脳内には”大学生は講義になんて出席せず、ビールを飲んで街を徘徊する生き物である”というステレオタイプができあがっており、僕はそのような退廃的生活を夢見て北海道大学を受験し、すんなり受かってしまいました。

みんな真面目だった

 でもいざ実際に大学に入学してみると、実際の大学生活、というより大学生の大学に対する姿勢は想像以上に真面目なものでした。みんな授業ちゃんと出るんですよ。”単位が〜”とか言って。でも僕は上記のようなステレオタイプに惚れ込んでいたし、初めて暮らす街をちょっとでも多く冒険してみたいと思って授業にろくすっぽ出ずチャリで石狩とかまで行ってました。広々としていて自転車で走ると本当に気持ちいいんですよねあの辺。

 いつだったか友人と二人でその辺をサイクリングしていたらおばちゃんに声をかけられて、知らない家のジンギスカンパーティーにお邪魔させてもらったこともありました。広大な大地によっこらしょっと座ってラム肉をじゅーじゅー焼きながら食べるわけです。うまい!!コンビニの肉とあなどってはいけない。セイコーマートの肉はけっこういけるのです。

   そんなことを繰り返していたら当然のごとく留年してしまい、その後も留年を重ねて退学に至ったわけだけれど、やっぱあの経験はとてもたのしかったなーとおもうのです。世間的には褒められたことじゃないんだろうけどさ。あ、この話全然オチがないわ。おわりおわり。